私は、借金があり、貯金はない…。
なのに、子供が4人もいるシングルマザーです。
え?大丈夫ですか?!とおもった方がほとんどだと思いますが、
笑っている場合でもないですが…
”子供達の為、この状況から絶対に抜け出さないといけない!”
という強い思いから、在宅ワークで月50万円を稼ぐ!!!を目標に
まずはwebマーケティングを学ぶことにしました。
もちろん、知識もスキルもありません。
なぜwebマーケティングで稼ぐ道を選んだのか。
そのきっかけと経緯について、自己紹介を含めてお話していきたいと思います。
記憶のない時期とたった一つの記憶
なぜか思い出せないのです。
私はどんな子だったのだろうか。
私は石垣島生まれの石垣島育ちで、父と母、妹2人と弟1人の6人家族。
父と母は自営業で、毎日朝から夜遅くまで仕事をしていました。
よく思い出話で子供の頃の話をすることがあると思うが、
私は子供の頃が思い出せないのです。
鮮明に覚えている記憶といえば、
酒を飲んで帰ってきた父が、嫌がる母を引きずりまわしている光景。
家の中もめちゃくちゃになって、1つ下の妹と部屋のすみっこで、泣き震えながら抱き合う。
「きょうもおとうさん、おさけのみにいってるの?」…今日もこわい。
夜中目覚めませんように。お母さんが怒られませんように。
父の怒っている顔、怒鳴っている声がとても怖かった。
私はそれからずっと自分の感情に蓋をして
「人を怒らせないように」生きていくようになっていったのです。
挑戦することの楽しさを知った高校時代
ここからの記憶は、覚えています。
高校は、商業高校へ入学。
高校1年の時は、反抗期でした。
学校も休みがちで、友達とぶらぶらしたり、お酒を飲んだりして遊んでいました。
楽しかったかどうかは覚えていないが、当時はこれがいいと思っていたのです。
ある日、お酒を飲んでいるところを通報され、学校から母に連絡が入りました。
2週間の出停(出席停止)。
母は父には報告しなかったのですが、母の悲しむ顔を初めて見ました。
私はとても後悔し、2週間の出停期間は猛反省しました。
私は変わるんだ!という思いから、簿記部へ入部しました。
顧問からの指導で、
「簿記だけではなく、色々なことにも挑戦してほしい」
「検定1級合格を3つ以上取得を目標にしてください」
簿記部では
簿記+電卓や情報処理、Excel、ワープロ、珠算検定の1級取得を目指し、
日々勉強に励みました。
仲間と励まし合いながら、充実した日々を送っていました。
高校2年生になって、
顧問から、勉強だけでなく生徒会活動にも挑戦してみないか?
と簿記部のメンバーに声がかかり、全員生徒会に入りました。
なるべく目立ったことは避けたいと思っていた私ですが、
「生徒会長」に挑戦してみたのです!
私の1年間の生徒会活動は、
残念ながら1年間に2度、高校生による大きな死亡事故が起こり、
イベント等は中止となり、事故撲滅運動が主な活動となりました。
高校3年生になってからは、さらに検定1級取得の追い上げをして、
検定1級を4つ取得することができました。
もちろん、簿記部の仲間も全員検定1級3つ以上取得し、目標達成を喜び合いました。
高校3年間は、顧問の指導と簿記部の仲間のおかげで
挑戦すること、達成することの楽しさを知る事ができました。
恐怖の日々のはじまり
石垣島には大学や専門学校はないので、高校卒業とともに
島外へ旅立つ人がほとんどで、私も沖縄本島の大学へ進学することができました。
初めての一人暮らしは、毎日がとても楽しかったのですが、高校の授業とは違う
大学の講義システムに慣れず、だんだん大学に行かなくなってしまいました。
一旦島へ帰り、専門学校へいくために一年間働きお金をためなおしました。
旅行業の専門学校へ進学することができ、
空港のグランドスタッフに憧れて、2年間必死に勉強しました。
就職活動では、残念ながらグランドスタッフの内定はもらえなかったのですが、
大手旅行会社への就職が決まりました。
旅行会社では商品開発部に所属し、商品の企画や予約受付業務等を担当していました。
「もっと大きな声だせないのか?」
と、毎日上司に怒られてばかりの日々でした。
ある日、一人の男性と出会いました。
彼は、私の日々の悩みをたくさん聞いてくれました。
とても優しくて、仕事の休憩にランチに誘ってくれたり、
お休みの日は、ドライブにも連れて行ってくれました。
そして私の誕生日に、彼からの告白で付き合うことになりました。
そこから恐怖の日々が始まるのです。
DVと監禁生活、脱走計画
私がお付き合いした男性は、東京出身の2つ年上。
とても優しくて、気がきいていつも私のことを最優先にしてくれました。
それが、お付き合いがはじまるとすぐに変貌したのです。
「男の店員がいる店には絶対にいくな」
幼少期の記憶が蘇る。
-父(男性)に逆らってはいけない。怒らせてはいけない。‐
私はすぐに彼の指示に従いました。
他にもメールをすぐ返さないと催促メールがあり、
仕事で返すことができないと、メールに加え着信が何件も入るのです。
そんな日は、怒鳴られ、殴られ、包丁を投げられ、
もっとひどいときは、一緒に死ぬぞと手を引っ張られるのです。
だけど普段はとても優しい人で、
私はこの優しさが欲しくて、怒らせないように過ごすようになりました。
仕事も退職し、ずっと彼のそばにいるようになりました。
しばらくして東京へ引っ越し、彼の実家で暮らすことになりました。
そして監禁生活が始まったのです。
彼の父は物静かで、自宅で建築の仕事をしており、母は専業主婦でした。
彼の実家の雰囲気は薄暗く、壁やドアに複数の穴がある。
彼がやったに違いない。
彼は私と2人暮らしをするために働き出しました。
だが、私は一切外に出てはならない。
当時の私は、彼の優しさだけを求めて、これでいいと思っていました。
ある日、高校の時から仲良しの男友達から久しぶりに電話が入りました。
(後に、私の夫となる人です)
「全然連絡ないけど大丈夫か?」
平気なふりをして、久しぶりの思い出話で盛り上がりました。
電話を切った後に
「…私の人生これでいいのか?」
と、一気に目の前に光がさしたように、
「自分」を取り戻したような感覚になったのです。
それからひそかに「脱走計画」をたて、男友達に協力してもらい
彼が仕事にいっている間に、脱走計画を実行しました。
まずは東京から大阪へ。
大阪に到着してすぐ、ボサボサの髪を美容室で綺麗にしてもらいました。
久しぶりに自分の頭からいい香りがしたのを覚えています。
その後3日かけて、石垣島へ帰ることができたのです。
父と母に事情を話し、謝りました。
「彼も探しているはずだから、ちゃんと電話して別れなさい」
と言われ、3日ぶりに携帯電話の電源を入れました。
電源が入ると、すぐに彼から着信がかかってきました。
どうにか別れることができたのだが、
2日後、彼が自殺をしたと、彼の父から連絡が入りました。
それから私は数日間どう過ごしたのか覚えていません。
新婚生活と介護生活
しばらく経って、落ち着きを取り戻した頃に
私はまた沖縄本島へ行き、働き始めました。
高校生のときに勉強した簿記を活用できる仕事に就きました。
人事や給与計算、経理等のバックオフィス業務は
私にとって天職かなと思うほど、毎日の仕事が楽しかったのです。
あの時の「脱走計画」から
男友達とは常に連絡を取り合うようになっていました。
あの体験から男性と付き合う事は避けていました。
気づけば5年が過ぎていました。
男友達とも交際をはじめ、仕事とともに、毎日が充実していた頃、妊娠が発覚し、
男友達は、私の夫となりました。
新婚生活が始まると同時に、義父がアルコール依存症で体調を崩し、入院。
退院後、私達と一緒に生活をすることになり、介護生活がはじまりました。
出張の多い夫は、家をあけている日が多く
起き上がるのも困難な義父と、妊娠している私と2人で過ごす日々でした。
ワンオペ育児と介護生活
第1子を出産後は、初めての育児で不安で毎日泣いていました。
義父は少しずつ回復していましたが、まだ介護が必要でした。
夫は変わらず、残業や出張が多く家にいません。
そんな中、第2子の妊娠が発覚し、
ワンオペ育児と妊娠、介護の毎日でわけのわからない日々を送っていました。
第2子を出産後もワンオペ育児に変わりはなく、育児と介護に疲れてはてていたとき、
義父が、「石垣島へ戻りたい」と話した。
3人で話しあって、石垣島へ戻ることになったが、義父は1人で暮らしたいと言いました。
仕事ができるまでに回復していた義父は1人暮らしを始めました。
私もやっと介護生活から卒業ができ、育児に集中できるようになりました。
地元ということもあり、精神的にも楽になりました。
石垣島へ戻って、1年が過ぎた頃に
1人暮らしを始めた義父は、またお酒を飲む日々を送っていたようで
義父は亡くなって1週間、誰にも見つけてもらえず、孤独死しました。
お酒のせいだろう。
家中にビールの空き缶、泡盛の空きビンが散乱していたそう。
もっとこまめに連絡をとっていればよかった
…ごめんね、お義父さん。
借金500万円と家出
夫は相変わらず、朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、
帰ってきても子供達とコミュニケーションはとらず、
風呂上がりのストレッチや読書等、自分のルーティーンをこなして、眠りにつく。
私は変わらず、「人を怒らせないように」毎日を過ごしている。
友達の頃からなんでも話していた夫にさえ、気を使って過ごすようになっていました。
だから夫と喧嘩はしないし、言いたいことがあっても言わない。言えない。
いつもどんなに辛いことがあっても、私は明るく振る舞う。
機嫌を損ねないように、機嫌をとる。
悩みは誰にも相談しない。
嫌な事があっても嫌とは言わない。
大丈夫じゃないけど、大丈夫と言う。
家計は赤字なのに、夫の好きなように使わせる。
そしてお金の事も管理がめちゃくちゃになっていきました。
夫にちゃんと言わなきゃいけないのに、怒られるのが怖くて言えない…。
怒られるより借金をした方がましだ。
私は生活費をまわすために色んなところから借金を繰り返しました。
そして借金は限度額に達し、どこからも借りれなくなりました。
第3子、第4子を産んだ後も、ワンオペ育児は変わらない。
もちろん、怒らせないように過ごすことも変わらない。
4人目だし、育児は慣れていると思っていたが違っていました。
ワンオペ育児と家事、フルタイム勤務。
朝4時に起きて、眠るのは1時は当たり前。
山のようにたまる6人分の洗濯物や洗い物。
身体が思うように動かないし、見るたび吐き気がするようになりました。
頭には円形脱毛ができ、体中に湿疹ができてかゆい。
2か月下痢が続き、食欲減少で体重も減っていったのです。
…精神的にも体力的にも金銭的にも限界。
夫にすべてを打ち明けました。
夫は借金があることにひどく怒りました。
それはそうなるでしょう。
ある日突然信頼していた奥さんから、借金が500万あると言われたら…。
その日から夫は、私をさけるようになり、口を聞かなくなった。
私もあの時のDV被害の記憶が蘇り、ますます体調が悪化していったのです。
毎日死にたいと思うようになり、私はこの状況に耐え切れず、
子供4人を連れて、家を飛び出しました。
うつとPTSD(心的外傷後ストレス障害)
しばらくは実家で過ごすことになりました。
家出をしても、夫から連絡はこなかったのです。
家族に連れていかれて、精神病院を受診。
診断は、「うつ」と「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」
しばらくは薬を飲みながら、通院することとなりました。
毎日夫の顔色を伺わなくてよい生活は、精神的にとても楽で
子供達もじーじばーばのお家におとまりできることを楽しんでいました。
家出をして3ヶ月間の記憶はないが、その時記録していたノートには、
「死にたい」「死ねない」「すべては私が悪い」とぎっしりと書いてあった。
それから私は知り合いの紹介でスピリチュアル講座へと入会しました。
日々自分自身を抱きしめ、自分に感謝をし、自分を許すことをしました。
その効果なのか?薬の効果なのか?
少しずつ楽になってきた頃でした。
ある日の講座で
「頑張らなくてもお金は稼げる。宇宙銀行からお金はおりてくる。」
頑張らない?宇宙銀行?!
頑張らないで、どうやってお金が稼げるのか?
頑張らないで、どうやって子供達を育てるのか?
「はっ!子供達!!!」
この数ヶ月、自分の事ばかりだった。
子供達のことをほっといたまま。
私には借金もある。大切な4人の子供達がいる。
私が頑張らないと子供達は生きていけない。
このままではいけない!!!!
私は子供達のために、動き出したのです。
父との関係
私が子供達のために、動き出した頃
実家に転がり込んで4か月が過ぎていました。
だんだん父の顔にも疲れが見えてきた。
突然家に大人1人、子供4人が増えたのだから。
長女10歳は、最初は父とも楽しく話していたが、
思春期に突入し、父とは口を聞かなくなった。
長男9歳は、宿題はしないし、ダラダラ過ごすし、散らかすのが得意。
父はよく長男の事を厳しく怒るようになったのです。
三男2歳は、イヤイヤ期で走り回るし、突然大きな声で叫んだりする。
子供4人いれば、毎日寝るまでうるさいのは当たり前だが、
父達はもう子育ては終わっているので、夜は静かに過ごしたいだろう。
長男を怒っている父を見るたび、自分の幼少期の記憶が蘇る。
私はまた父を怒らせないように気を使いだしたのです。
このままでは、父も子供達も
また私も「限界」がきそうな予感がする。
実家を出て、子供達と暮らせる環境を作らなければ。
早く稼ぐ力をつけなければいけないと思いはじめました。
webマーケティングを学ぶ2つのきっかけ
1つ目のきっかけ
現在私は、父が経営する会社に経理事務として勤めています。
父の会社は、卸売・小売業で
地元のお客様、観光客も来店し、ありがたいことに年中賑わっています。
だが、会社のホームページやSNS、オンラインショップ等はなく、
やらない理由は、web系は高額だから。
私はあった方がいいと思っているが、知識がないため説得力もないのです。
また父が突然亡くなってしまったら、
経理の知識だけでは、私は何も役にたたないだろう。
視野を広げて、色んな方向から知識を得て、スキルアップをしなければいけない。
スキルアップをし、知識を広げていけば、
父にも説得力のある説明ができるのではないか?と考えました。
もちろん父との脳内シンクロ率もあげなければいけないが、
父はいつも自分で考えろとしかいわない。難しい父である。(笑)
とにかく経理以外のことを学んで、スキルアップをしたかったのです。
2つ目のきっかけ
父の考えは昭和で「稼ぐのは男」。
だから給与もこれ以上、あげることはないと言われたばかりである。
手取り20万じゃ、この先不安。
借金も返済できないし、子供達の事もある。
実家を出て、子供達と暮らしていかなくてはいけないと焦りがでてきました。
やはり副業もしていかなくてはいけない。
稼ぐ力を身に着けていかなければいけない!!
この2つのきっかけがあって、
「よし!やるぞ!!」
と気合を入れるも何をしていいのかがわからない。
これまでも副業やなにか学びたいなと思って、やってみるも継続ができなかったのです。
やはりオンラインスクールに入って学ぶべきなのか?
調べていくうちにInstagramでSNS運用代行を専門としたオンラインスクールの
発信をしている代表のこもりんに一目惚れをしたのです。(笑)
「この人(こもりん)についていけば大丈夫かも!」
悩むことなく「リモラボオンラインスクール」に入会しました。
スクールに入会して、すぐ「リモラボ」でよかったと思うことができたのです。
・一緒に頑張る仲間がたくさんいること
・経営者の方、先輩方のリアルな体験話をセミナーで聞く事ができる
・毎日が新しい情報と、常に前向きになれる情報交換の場がある
社会人になって、目標に向かって頑張っている仲間と出会ったことがなかったのです。
尊敬できる上司にも出会ったことがなかった。
私はずっと昭和の時代を生きてきた感じがした。
「リモラボ」に入会して、新しい風が吹いているかのように毎日が新鮮でした。
これまで三日坊主の私が、仲間と共にどんどん行動を増やせるようになり、
リモートワークに挑戦したり、継続ができるようになっていったのです。
ある日のセミナーで
1人の経営者が総合webマーケターについての話をしてくれました。
「…私がやりたかったのは、これだ!!」
「やっと見つけた…!」
話を聞いて、震えたのを今でも鮮明に覚えています。
すぐに総合webマーケターコースの申込をしました。
恥ずかしい話ですが、
これまでお金の管理もだいたいでやっていたため、管理はめちゃくちゃ。
お金ともしっかり向き合わないといけないと、
家計簿をつけ、支出の見直しをしてスクール費をつくることができました。
そして私はwebマーケティングを学び始めました。
私は変わる!!
私は長い間、他人軸で生きてきました。
父をはじめ、夫や家族、友達、職場の人…。
関わるすべての人に、第一優先にしていたことは、
「相手の機嫌をとること」
私は間違った目標設定をし、自ら悪いループの中にいたのです。
「自分が何者なのかわからない」
「私は誰の為に、何の為に生きているのだろうか」
うつになってよかった…とまではいかないですが、
これを機に人生で初めて、「自分自身と向き合う時間」ができたのです。
そして私はやっと気づいたのです
「自分軸で生きていいんだ」
私は「自分自身を磨き上げること」をやっていきたいと思いました。
今目の前にいる大切な4人の子供達のことを第一優先にし、
やりたかった「webマーケティングのスキル」を磨く!
そして、「リモラボ」というオンラインスクールの環境に身を置き、
一緒に頑張る仲間達と共に、目標をどんどん達成していきたいと思っています。
私は、他人に振り回される人生にさよならします!
私は、変わります!
おわりに
私の目標は、在宅ワークで月収50万円以上稼ぐことです。
私はまだ学び始めたばかりですが、
シングルマザーで子供が4人いても、 借金があっても、貯金がなくても
スキル0から在宅ワークで月50万以上稼げるまでの人生逆転劇を
届けていきたいと思っています。
そして、私と同じようにお金に困っているママやシングルマザーで頑張っているママに、
私のやり方を参考にしたいと思ったときのために、しっかりと成長過程を記録に残して、
発信していきます。
よかったら、どん底から這い上がっていく私の成長状況を見に来てください。
私は4人の子供達の為に絶対あきらめません!
最強の母を目指していきます。
[…] はじめまして!自己紹介します […]
[…] という強い思いから、在宅ワークで月50万円を稼ぐ!!!を目標に まずはwebマーケティングを学ぶことにしました。 詳しい経緯はプロフィール記事にまとめているので、よかったら読んでみてください。 […]